2011年1月25日、ムバラク大統領退陣を要求する最初のデモがタハリール広場で起こりました。デモが禁止されていたエジプトですが、民主化運動を推進する青年活動家らと反政府勢力がFacebook、Twitterを通じてタハリール広場への参集を呼びかけたところ、想像以上の人々(1万5000人)が集まったのです。その背景には30年近く続いていたムバラク政権への民衆の不満がありました。また隣国チュニジアで長期独裁政権が民衆によって倒されるというジャスミン革命(2011年1月14日、“アラブの春”のはじまり)が起こったことも後押ししていたと思われます。この日は「警察の日」と呼ばれる日だったのですが、薬物犯罪担当の警察官による麻薬の密売をインターネット上で追及したハーリド氏が、警察によって不当に殺害された事件への反発が根本にありこの日が選ばれたようです。
1月28日の金曜日、集団礼拝により人々が集まる日でありデモは拡大。政府によりインターネットが遮断され、ごく一部を除いて携帯電話も使用できなくなりました。エジプトの家庭に引かれている電話は、特別許可を得たライン以外国際通話はできません。ですから安否を気遣う日本にいる家族とも連絡が取れなくなりました。通信手段を政府が掌握できるというのは凄いことですね。29日からはカイロに住む外国人たちが続々と国外退避していきました。
この機に乗じた店舗からの略奪などの被害が報告されたため、タハリール広場から車で10分ほどのところにある自宅周辺でも若者を中心とする自衛団が出て街の警備に当たりました。家にある棍棒や銃を持ち出して―銃を所持している人がいて反対に青くなりましたが―近くの道路に自主的に集まり、柵を設置して入ってくる車を検問していました。“わが道を往く”エジプト人たちが連帯性を発揮したところを見るのは、サッカーの対外試合での応援以外見たことがありません。
(2011.2.1 記)
庶民の生活はタハリール広場の喧騒とは対照的にずっと平穏を保っていました。街のあちらこちらに戦車や装甲車が配備されていましたが、兵士も行き交う人々と話をしたりして、緊迫した状況ではありませんでした。
しかし反政府勢力はムバラク大統領の退陣を求めて攻勢を強め、タハリール広場に集まる群衆の数は事あるごとに増えていきました。そして2月11日、ついにムバラク大統領が辞任。タハリール広場は愛国心を強めるとともに精神高揚の場となりました。街のあちこちで国旗が売られ、ピラミッドへ通じる大通りは若者によって清掃されて、路肩は国旗の色である赤、白、黒の3色に塗り分けられました。外国人へ綺麗で整ったエジプトをアピールしようという狙いです。
一連の政情不安を通して常に見えていたのはエジプト人の強い愛国心のように思われるのです。これからは愛するエジプトを一致協力して良くしていこうと。