エジプトへ居を移して丸18年になります。

こちらへ移住したのは、当時10歳になる息子にイスラームを肌で感じさせたいという主人の強い希望があったからでした。私は日本で約20年研究職にあり、好きな仕事を辞めるのはとてもつらい事でしたが、移住するのであれば私自身も活動的でいられる年齢の方が良いだろうと前向きに捉えての決断でした。

来た当初、まずエジプトと日本の経済格差に愕然としました。当時公務員の初任給が150LE、日本円にして3,000円ほど。どうやって生活しているのだろうという金額です。まずは大学教授の職を探しましたが、エジプト人ですら仕事が無くて困っている時に日本人に職の口があろうはずがありません。他に仕事を探したところ、日本人に特化した求人として、日本語の教師と観光会社でのオペレーション業務がありました。当時は観光業がエジプトの基幹産業の一つであり、観光会社で働く方が大学教授よりも高収入であることも驚きの一つでした。私は縁あって日本人がオーナーの一人である観光会社で働き始め、同時にエジプト政府が監修するアラビア語の学校へ通い始めました。アラビア語を話したり読み書きができなければ、生活していく上で窮屈だと思ったからです。楽しかったです、このアラビア語の学校は。別途書く機会を設けますが、世界中からいろいろな理由でエジプトへ来ている人々と知り合い、特に北朝鮮から来ている熱心な女学生と友達になりました。北朝鮮の方だとはずっと知らずにいたのですけれど。

観光会社に勤務の傍らにいろいろな仕事をしました。英語/日本語の翻訳、英検のインタビュアー、テレビ撮影のコーディネートなど。でもしっかりと将来を見据えた仕事がしたいと思い、自分でビジネスを興すことにしたのです。

『エジプトのアリババ』
    を開業

Ali Baba Egyptをピラミッド前に開業

2006年、ピラミッドの前に日本人向けのお土産物店『Ali Baba Egypt – エジプトのアリババ』を主人と開店しました。ピラミッドの周囲に立ち並ぶお店を経営しているのは土着の住人ばかり。不安は大きかったですが、よそ者の私共も少しずつ地域になじんでいきました。取扱う主な商品は香油と香水瓶。日本人の好む香りを選び、買いやすい定価販売、またアリババオリジナルのストラップやチョコレートを用意して喜んでお買い物頂けるお店を目指しました。当時は沢山の日本人観光客がいらしていましたから、お店も徐々に軌道に乗っていきました。

息子は初めの2年をカイロ日本人学校で過ごして小学部を卒業後、Cairo American College へ転校しました。日本人学校は中学部までしかありませんので、いずれ英語かアラビア語で学習する学校へ移らなくてはなりません。それで中学部から転校しました。最初の1年は英語がわからず大変だったようですが、その後は楽しい学生生活を送っておりました。

エジプトの革命 勃発

そんな折です、エジプトの革命が勃発したのは。2011年1月25日のこと。外国人の殆どが海外退去し、エジプトの学校は全て閉鎖。息子は当時高校卒業を間近に控えていました。同級生たちの内、アメリカ人の生徒たちは早々と見切りをつけ本国での卒業を目指して転校していきました。卒業できるのだろうかという不安を抱える息子に何と声を掛けて良いのかわかりませんでした。

日本の親戚・友人、在職時関係のアメリカの友人、たくさんの方が心配してメッセージを送って下さいました。でも生活はごく普通でした。そして Cairo American College はエジプトの学校が開講するより早くオンライン授業を再開。画期的な取り組みだったと思います。また学校を早くから解放して残っている学生たちが会う場所を提供してくれました。ですから日本へ強制的に退去させられた息子の親友たちが、戻って来たいと熱いメッセージを送って来ました。企業から派遣されてエジプトに滞在している方々とは違い、私共にはエジプトに留まるも退去するも選択できる自由があるのです。保障と裏腹ではあるのですけれど羨ましいと思われましたね。

革命終結後、タハリール広場に集まる人々

このような状況にあるときに、日本のある新聞社から記事の執筆を頼まれました。一市民が見るエジプト革命の裏側をリポートしてほしいというものでした。この依頼を受けたときがブログを書くきっかけとなったのです。折角エジプトにいるのだから、見聞きしていることを書き残しておこうと。

息子は革命後にいち早く開校した Cairo American College を無事に卒業することができました。

ピラミッドでの卒業式

2011.6.12

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